平安時代の文学として名高い「源氏物語」と「平家物語」。
普通、武門における源氏と平家と言えば、常に対比して語られるものですが、こと物語に関しては全く違います。
帝の第二皇子だった、光源氏の恋愛と生涯を描いた長編小説。
もう一方は、武士の勃興と諸行無常を説く軍記物語です。
一般的に「源平」といえば武士の話なのに、なぜ源氏物語については貴族のお話なのか。
ちょっと不思議になりませんか?
これには【臣籍降下】というシステムが大きく関わっています。
「姓がある」=「皇族ではない」臣籍降下とは、皇族が天皇から「姓」を賜って、臣下になることです。
日本では、姓は天皇が下の身分の者に与えるものであり、皇族には姓がないことから、「姓がある」=「皇族ではない」という意味になるものでした。
逆に言うと「姓を持っている」=「由緒正しい家である」ということにもなります。
藤原氏が初代・鎌足以降、ずっと朝廷の中心にいたのも、同氏は皇族の血を引いていないにせよ、最も古い時代に「姓」を賜った一族だからです。
こうなると「姓」と「名字」の違いがわかりにくいところですが。
ザックリいうと
・「◯◯姓」は「◯◯一族」
・「◆◆という名字」は「◯◯一族の中の◆◆家」
を指すと考えれば良いかと。
これに関しては、戦国大名がわかりやすいかもしれません。
例えば「甲斐の武田家は源氏」というような表現がよく出てきますよね。
あれは「源氏の血を引いている武田家」という意味です。
基本的に時代が進むほど子孫の数が膨大になっていくので、途中で兄弟が別れて住むようになり、「じゃあ俺は△△っていう土地に住むから、△△を名字にするわ」みたいに名乗りを変えていった結果です。
近代までの一般庶民にはそういう経緯がない、もしくは記録が存在せずわからないために、名字を名乗れなかったのです。
制度的に許されなかった……というのもありますが。
平安時代の例で言えば、源平の戦いで途中退場(超訳)する源義仲が「木曾義仲(木曾次郎)」と名乗ったり呼ばれたりしています。
あれは、彼が幼少期に木曾(現在の長野県木曽郡木曽町)で家臣に守り立てられて育ったことに由来します。
さて、だいぶ話がそれました。
臣籍降下に戻しましょう。
臣籍降下は、名字が分かれる前の根本ともいえるシステムです。奈良時代に大宝律令が定められたとき、「皇族はここからここまで」という血縁上の区切りが決められました。
しかし、子沢山な天皇がいた場合、財政上や皇位継承順などで不都合が生じてきます。
そこで皇族を整理し、それぞれ生計を立てられるよう
「いっそのこと臣下になって、自分で財布の管理をしてもらおう」
となったのが、臣籍降下の始まりです。
主に王(親王の息子)がその対象となりましたが、ときには親王や内親王も降下していきました。
そしてその中で、最も多かったのが源姓です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の一族だけでなく、他にも源氏姓の家は多々あり、だからこそ頼朝の子孫が途絶えても、戦国時代のアッチコッチに「末裔」がたくさんいるんですね。
武家に繋がる源氏は、おおむね清和天皇の子孫である【清和源氏】と呼ばれる一族です。
「清和天皇ではなく、陽成天皇からの枝分かれでは?」とする説もありますが、清和天皇と陽成天皇が親子なのであまり変わらないというか、名称を変えるほどの意味が無いというか……という感じで、名称変更までには至っていません。
もちろん他にも源姓になった人々はいますが、それはまた明日「清和源氏とその他の源氏」としてマトメさせていただきました。ちなみに源氏は「二十一流」といわれ、21人の天皇の子孫が源姓を名乗ったことがあります。多すぎ。
ともかく平安時代までは、臣籍降下する皇族が多かったのですが、鎌倉時代からは出家する人のほうが多くなり、家を起こすことが少なくなりました。
無尽蔵に増やしても、世の中に回るお金や肩書の数は増やせませんので。
ちなみに、一度臣籍降下した皇族が、何らかの事情で皇籍に復帰することもごくまれにありました。
代表例は宇多天皇です。一度は源定省(みなもと の さだみ)という名で臣下になりましたが、政治的事情で皇籍に復帰し、皇太子を経て即位しています。
現代でもたまに、皇室の存続を模索する議論で「旧皇族を復籍させればいい」という話が出ますが、かつての復籍は降下した当人が存命中に行われていることがほとんどなので、今となっては難しいでしょうね。
臣籍降下した家々の末裔の多くは明治時代に華族となり、戦後には公的に一般市民と同じになりましたが、霞会館など独自のコミュニティは今も残っています。
千年以上も家同士の付き合いが続いている理由の一つは、元々が皇室から分かれたからなのかもしれませんね。
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